どうして私が大学に?高金利運用で学費が捻出できたから。

私立大学の文系学部に進学するとする。生活費・学費込み、保守的な見積もり額として、子供が大学に入学する18歳までに、1000万準備するとする。

計算を単純にするため、リスクゼロである国債にて、「7%」で運用できるとする。

「7%」としたのは、複利計算上、7%で運営すると10年で「倍」になるからである。

7%で運用すると、10年で2倍になる。ということは、8歳のときに500万円あれば、18歳のときに1000万円ができあがっていることになる。ということは、「8歳マイナス10年」のマイナス2歳のとき、つまり、子供が生まれる2年前に250万円が貯金できていれば、リスクゼロの国債による運用、つまり、何にも考えず枕を高くして眠りながら、大学へ行くお金ができあがることになる。

以上は、ほんとに単純化しているので、かなり正確さに問題があることは認める。こんな数値を出したら即首になるレベルだ。

だが、大筋では間違ってないように思う。ほんと、昭和の昔は、「お金」を寝かしておけばよかったのだ。

頭を使って情報を調べ、時間を割いて分析して、運用するなんて、そら、ばかばかしいことであったろう。

そんな高金利ってあるか!

「7%」の運用だって?!と思うかもしれないが、それはわたしもそうだった。が、日本銀行の金利データをぽちぽちといじってみたら、「7%」って、昭和の往時は全く不可能でなかった「利率」であることがわかる。

参考:日本銀行「金利」

当該表でデフォルトで表示されている、「基準割引率及び基準貸付利率」が、かつての公定歩合である。

公定歩合だから、定期預金やワリチョーといった割引債、信託銀行の金融商品にまで投資の対象を広げれば、もっと「利率」は高くなったはずであろう。

(ちょこちょこといじっただけで、まだ、不慣れなのだが、昔の預金利率のデータはまだ見れないようだ。)

わたしが私学の法学部を、妹が短大の国文学科を卒業したので、さぞかしうちの母は、財テク・資産運用が上手だったのかな、と思っていたら、そうじゃなかったのである。

何もしないこと、下手に投資をしないことが、かなりよい投資だったことがわかって愕然としたのであった。

それだけ今のパパとママはしんどい

高齢世帯の方に一言だけいいたいのだが、現在は、かつてのように、何もせずして運用できた時代ではない。

今のパパとママは、しんどい。

投資には、知識も熟練も訓練もいる。子供や孫の世帯に、少しでもいいので運用資金を融通してあげてはどうか、と思う。または、ある程度の額の「予約」をして、それを表明しておくべきである。

コレ少ないけど、学費にしてあげて、と孫が大学に入ってから、封筒や通帳を差し出すのは、極めて愚かである。想像以上に感謝されない。使い道が全く間違っている。

はっきりいうと、大学に行けたというそれだけで、もう資金運用の多くは済んでいる。金の工面が完了したから、行けたのだ。

それをのこのこ、「成功」にただ乗りしようなんて、恩せきがましく今更になって出すな、と思われるのが落ちである。

運用には時間がかかるのだから、前もって、先々に、出しておかないと意味をなさない。

もちろんのこと、嫁なり息子なりに運用能力がないときは、その限りではない。FXで子供の学費を捻出しようとする人もいるので、ある程度の試験を課さねばならないだろう。

20世紀の大学進学と21世紀のそれ

いっそのこと、大学進学はあきらめて、大学以外の生き方を模索するのも、ありである。むりやり、大学に行っても何もないことが多い。もはや時代は、大学進学という投資は失敗に終わる公算が高い。

かつて、大学を卒業するということは、サラリーマンになるということで、そのサラリーマンは終身雇用で、定年まで働けることが前提にあった。大卒だと学歴給がつくから、大学進学費用は割に合ったのである。つまり、回収できてお釣りが来たのである。

うちの父は大卒で、農家の出身である。おじいちゃんは、3男坊の父には農地が渡らない、つまり生活の糧を分けられないからこそ、お金を工面してサラリーマンとなるべき大学進学という「投資」を行ったのであろう。

かつては、サラリーマンであることが、終身の収入を得ることができると、考えられていたのである。

しかし、今は、21世紀である。20世紀の頭をした人ほど、かつての幻想に囚われる。学歴とは、終身雇用あっての投資だったのだ。しかし、今後はもう、絶対に、確定的にそうじゃない。

大卒のパパやママは、自分が大学に行ったから自分の子供にもそうさせたいことだろう。しかし、「待った」をかけるべきである。かつては、進学しか子供に選択肢はなかった。進学しないということは、ドロップアウトだった。だから、子供の社会は混乱した。「進学しない=ドロップアウト」という、かつての残滓は、Fランク大学の乱立と廃墟の中に、いまだに幻想として残っている。

しかし幻想は幻想で、かならず消える。大卒でも、能力がなければ、生き残れない。逆を言えば、能力があれば、いくらでも生き残れる。生き残れるということは、後からいくらでも大学に入ることができるのだ。

もっというなら、ようやく大学が大学に戻ったのだろう。もちろん、官吏養成機関としてのそれじゃないよ。

下手に学費を出すよりも、残しておいて彼なり彼女の本当に必要なときの実弾として、置いておくのもよい。

社会なり、実業なり、実務の経験を積んで大学で学ぶ。大いにある選択肢である。大学が狭い門になったのは、受験生が殺到しただけだ、ということを、わたしたちは思い返しておくべきだ。

歴史は、人生の選択肢を増やす方に進んでいる。

かつて離婚は、男女とも社会的に大きなリスクだった。男は企業社会で自分の嫁・家庭も管理できないやつなら、管理能力もない、なんていわれて、出世街道から外された。女も男に逃げられた、辛抱が足りないやつというレッテルが貼られた。人格が否定された。だから、仮面夫婦という言葉も生まれた。

しかし、もうそうじゃない。社会の基本単位である夫婦でさえそうなら、子供のすべてが「進学」という選択肢しかないわけがない。社会は変わるのだ。

思い起こせば、進学するのが珍しかった時代であったのだ。仮面人間はもういいだろう。

自分の夢や進路が見えない。そんな子供がたくさんいるが、当たりまえで、そんなのパパ・ママ、ジジ・ババも見えてなかった。だから、「進学」1本になっちゃったんでしょ。そして、逆に、「進学」しかないから、自分の何かが見えなくなったんでしょ。

もう、学歴や進学という信仰からは醒めるべきである。パパ・ママ、ジジ・ババが醒めないから、子供が困るのだ。

○○という凝り固まった少ない選択肢しか頭に浮かばないのは、20世紀の残滓である。20世紀型プロトタイプ思考になっていないか、調べてみるべきだろう。

年功給・学歴給が完全になくなるだろう昨今、学歴は確実な投資対象ではない。なら、何が確実な投資対象となるか。

「その答えを誰かに聞こうとすること」-それが、20世紀の典型なのである。

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