・バフェットの年表:前編-幼少期・青年期

バフェットの年表のうち前編です。幼少期から青年期までを紹介します。大恐慌の時代に生を受け、コロンビア大学進学のころには十分な収入があったバフェットの半生です。


CHAPTER 1
前編-幼少期・青年期

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バフェットの銘柄選択術
バフェット流投資。初級者用の最高テキスト。

1930年8月、オマハにて生まれる。

1931年、1歳のとき、大恐慌の影響で父の仕事先である銀行がつぶれる。

バフェット自身、大恐慌があって良かったといっおり、ものすごく景気のいいときに生まれていたら、ココまで大きくはなれなかったとの自省してます。

5歳のとき、家の前にガムを売るスタンドを設ける
6歳のとき、祖父の雑貨屋から仕入れたソーダを訪問販売する

・・・そのほか、幼年期はゴルフコースを回って使えるゴルフボールを拾ってきたり、キャディのバイトをする。ときには、レース場で捨てられた馬券の中から当たり馬券を探すのに精を出したとのこと。

このあたりから、「カネの亡者」という感じがします^^

※このカネの亡者は肯定的な意味です。億万長者になるには、やはり子供の自分から、「お金持ちになりたい」と想わないといけないのでしょう。これも大恐慌ry

11歳のときはじめて、株式を購入。このときはシティサービス社の株を購入。5ドルの利益を得たが、このシティサービスは直後に大幅値上がりし、ギャフンを小学生で味わう。

・・・このとき、父ハワードは証券会社を経営していました。ですから、チャートやらなんやらに触れることは非常に多かったと思われます。

12歳のとき、父ハワードが上院議員に当選してしまう。そのため、首都のワシントンに引っ越すことになる。さて、引っ越したのはいいが、ひどいホームシックに罹ってしまい、結局バフェットは、オマハの祖父の家に戻ることとなった。

・・・このあたりからもう「オマハマニア」という感がしてなりません^^

オマハに戻ったバフェットは祖父の家で働き、重労働=勤勉、祖父のピンハネ=税金、といったビジネスに大切なものを学ぶ。

・・・このあたりも、成功者への道、という感じですねぇ。いい教育だと想います。まさに、家人のために美田を残さず?生きた勉強ですね、ホント。

日本だと大学生でもこんな勉強はできないでしょう。

13歳のとき、これ以上、オマハに残すわけには行かないと、ワシントンの家族のもとへ戻ることとなる。

ワシントンに戻った彼は、ワシントンポストの新聞配達のビジネスに夢中となる。この新聞の仕事以外は、得てしてうまく行かず、成績も芳しくなく、「飛び級」だったため、クラスメイトともなじめなかった様子。

・・・アメリカでは飛び級は普通だと聞きます。

13歳6月、家出。

・・・盗んだバイクで走り出す〜♪

14歳、ワシントンポストの新聞配達が絶好調で、当時のサラリーマン並に稼いでいた。

・・・まあ、こんな早熟なガキもいますね。

バフェットは、そのときの稼ぎをネバラスカの40エーカーの農場に投資していた。

・・・そら、投資先進国、アメリカですから〜〜、残念!!!

ではすまないでしょう。これ、本当に一番驚いた。自分が中学のときにこんなことを、「考えるかもしれないけれども」、さすがに「実行できない」と思います。ここが、凡人とはちがうんでしょうねぇ〜。

わたしが「ビジネスは人なり 投資は価値なり」を名著だと思ったのは、この1文が存在していたからこそです。成功者はそれなりのバックグラウンドを持っているもんだと、深く悟ったわけです。

高校3年のときはピンボールの事業を経営。

1947年、6月、ハイスクールを卒業。ペンシルバニア大学に進学。飛び級をしていたので、17歳で大学進学です。

・・・ってか、バフェットは17歳という年齢で、十分な収入を得ておりました。

1949年秋、ペンシルバニア大学からネバラスカ大学に転校。

・・・家族が皆、オマハに帰っていたのでバフェットも帰ったようです。

1950年、ゴルフボールの事業を再開。(ガキンチョの頃?の続き?)

1950年、ハーバード大学に転校依頼を出すも、年齢が足りないとの理由で断られたようです。

ハーバードへの転校依頼と同時に、コロンビア大学への依頼も出しており、[コロンビア大学はバフェットの願いを聞き入れ、バフェットはコロンビア大学へ転校することになりました。

そう、そのコロンビア大学に、後にバフェットの師となる「ベンジャミン・グレアム」が教鞭を取っていたのです。